ふるさと中富

 

「ふるさと中富」

本校の「目指す学校像」は、「子ども一人一人の中に『ふるさと中富』が育つ学校」です。

ここでは「ふるさと中富」を紹介します。

三富の地

中富地区は、元禄7年(1694)1月に川越藩主となった柳沢吉保によって開発された地域です。短冊形の土地が特徴の1つで、今でもその区割りが残っています。

詳しくは埼玉県のHPにある「三富地域の歴史」をご覧ください。

https://www.pref.saitama.lg.jp/a0108/908-20091216-188.html

この三富開拓の地の真ん中にある本校は、屋上が市内の小学生を中心に社会科見学で使われています。屋上から見ると、今でも短冊形に土地が使われている様子を見ることができます。

屋上から見た三富

 冬の晴れた日には、西側の茶畑の先に富士山を見ることができます。

 

三富おろし

 この三富開拓について学んだ子どもたちが、「三富おろし」という歌をつくりました。その歌を今でも引き継いでいます。子どもたちには、次のように話しています。

「三富おろし」の演奏(令和元年度6年生)

「三富おろし」の歌詞

 

穀倉

 校庭には学校の近くにある旧田中家の穀倉が移築されています。

PTA広報誌「なかとみ」では、穀倉のことを次のように紹介しています。

 正門を入るとすぐのところにできた『穀倉』これは、所沢市の重要文化財、そうです所沢市の宝物です。
この穀倉は中富小のすぐ近くにある田中さんのお宅に今から約250年前ごろ建てられたものと推定されています。
多くの人の目にふれ、これからも長く大切に保存していってほしいという願いから、所沢市に寄贈され中富小学校の校庭に引っ越してきました。
 この穀倉、昔はどのように使われていたのか田中さんにお話を聞いてきました。田中さんの家は昔「醤油屋さん」でした。
みなさんがよく使うお醤油は、大豆から作られています。このお醤油を作るための原料である大豆を貯蔵していたのがこの穀倉ではないかと考えられているそうです。穀倉の床は地面にそのまま触れないように丸太で持ち上げられているのが皆さんも見るとわかると思います。また、高くなった入り口から重い大豆を出し入れするため入口の前には木の段があったそうですがそれは復元しなかったようです。
 では、見ることができない穀倉の中はどうなっているのでしょう。中は、昔3つに分けて櫃形にし、その柱に杉板をもって仕切って使われていたようです。その板は貯蔵する穀物の量に応じて、自由に抜き差しできるようになっていたので、田中さんはその板をはずし、家で作った麦俵を貯蔵するためについ最近まで使っていました。
 穀倉は、三富地区としてはもう一つ多福寺にも存在し、今ではたった2つになってしまった貴重な文化財です。
 この貴重な文化財を昔のままの状態で保存し多くの人が250年前の建造物『穀倉』を観ていけるよう、
皆さんも大事にしていってください。皆さんの子孫がこの『穀倉』の前に立って「この穀倉、千年前に建てられたんだって、」なんていう日が来るかもしれません。

<平成13年7月6日発行 なかとみ 第119号より>

 

池原昭治さんの穀倉の絵

 TBS系列で放送されていたアニメ「日本昔話」でも活躍されていた池原昭治さんが、中富小学校の穀倉の絵を描かれました。大切に使わせていただいています。

童絵作家・池原昭治さんの公式HP https://www.ikehara-shouji.com/

童絵作家池原昭治さんの穀倉